司馬遼太郎『韃靼疾風録』

司馬遼太郎『韃靼疾風録』


17世紀中国近世は、満州族清帝国から始まる。なぜ人口60万人の満州女真)族が何億の明帝国に変わり中国支配をなしとげたのか。なぜ文明(華)が野蛮(夷)に征服されたのか。司馬氏はその歴史ロマンに、平戸の日本人武士と韃靼公女の恋ロマンをからませ、壮大な歴史小説に仕上げている。歴史ロマンといっても司馬氏は東洋史の史実をきちんと押さえている。この本を読了してから、増井恒夫『大清帝国』や岸本美緒ら『明清と李朝の時代』(「世界の歴史12巻」など歴史学者の本を読んだが遜色ない。最終章「女真人来り去る」には、満州人の子孫の面談や満州語の調査が記されていて、きちんと取材されていることが分かる。また辮髪論や流民・流賊論、倭寇論、遊牧論など司馬氏の文明論が展開されていて、楽しい。
 「華夷変態」といわれ、野蛮の勃興が歴史の変革になる清の勃興は西欧史のローマ帝国へのゲルマン民族の移動が思い当たる。この小説には文明爛熟した明帝国内部の内紛と政治腐敗に対し、清太祖ヌルハチや太宗ホンタイジ、摂政ドルゴンの野生と清廉、戦闘者としての規律、多民族主義への寛容などがよく描かれている。また日本鎖国で切り捨てられた海外在留の人々の描写も共感できる。
 司馬氏がこうしたアジアの歴史小説を書いたのも、日中戦争満州国の成立といった昭和期の体験もあったと私は思う。日本の侵略と満州国樹立は、満州族を利用したものであり「五族協和」(満、漢、朝鮮、蒙古、日)は日本中心主義の隠れ蓑に過ぎなかった。だがこの体験がこの歴史小説に投影されているというのが、私の読後感である。司馬氏には中国史を扱った『項羽と劉邦』という名作がある。井上靖『蒼い狼』とともに戦後が産んだアジア歴史小説の双璧だと思う。(新潮文庫