磯崎新『ル・コルビュジエとはだれか』八束はじめ『ル・コルビュジエ』

磯崎新ル・コルビュジエとはだれか』
八束はじめ『ル・コルビュジエ

ポストモダンがいわれた時、建築界からモダニズム批判が始まったと言われた。確かに近代建築がテクノロジー(コンクリート・鉄・ガラス)とその生産様式によって成立した以上当然だろう。近代建築は、①ヴォリユームとしての建築②規則性と幾何学的空間構成③装飾を嫌う機能性を追及した。20世紀最大の建築家ル・コルビジュエは「住む機械」とか「建築とは光の下に集められたヴォリュームの壮麗、正確かつ巧緻な戯れである」といった。ポストモダンでコルビジュエは果たして乗り越えられたのか。この二冊はコルビジュエに取り組んだ本である。
建築家磯崎氏は、60年代コルビジュエの死によって、彼が推進した理想未来都市のユートピアの死を見てしまったといい、再考しようとしている。都市計画の不能性は50年代インド・チャンヂカールのコルビジュエの巨大都市が、終わったことを告げていて面白い。が私は「私にとつてのアクロポリス」の章が面白く読み応えがあった。ギリシャのパルテノン=「機械」=立方体で白い建築、自然の秩序に対する人為的論理明晰な幾何学的秩序・地中海の澄んだ明晰さ。それがピロティ、屋上庭園、自由なプラン、立面と独立骨体、緑と太陽と空間になるという。白一色はコンクリート打ちっぱなしの生の表現になる。その上でコルビジェアクロポリスの反逆者になることを目指すというのだ。
八束はコルビジェの両義性を主張している。合理的で機能的な機械の近代テクノロジーの面と、「空間の官能性が太陽鑚仰的な生命の謳歌や闇の中に潜まれたエロス」の意味面の両義性があると八束氏はいう。後期の土着的、アジア・アフリカ的な野生を近代技術と調和させる美学がコルビジュエにはある。まだまだコルビジュエは建築界で聳え立っていると思う。(『ル・コルビジエとはだれか』王国社、『ル・コルビジエ』岩波書店