川村二郎『内田百間論』

川村二郎『内田百輭論』

    内田百輭の全体像を評論するのは難しい。川村氏は見事に全体像を評論している。小説、エッセイ、日記、紀行文(『阿呆列車』)まで論じている。副題に「無意味の涙」とある。
   それは百輭の「言葉のない音楽を聴いて出る涙は一番本物の涙だといふ気がする。意味と云うもののない涙ですね。喜怒哀楽とは関係ない」という百輭の発言からとられている。『冥途』でも『旅順入城式』の短編は、無意味の涙がある。無意味の笑いもある。『阿呆列車』は無用の旅であり、種や材料を排除した、なんの内容ももたない文章。意味の拒否による笑い。
   「意味の病」の重みから逃れたポストモダン小説か。それとも前近代の説話か。川村氏は柳田國男の「笑いの、オコの文学」の親近性を指摘している。また種村季弘氏は『冥途・旅順入城式』(岩波文庫)の解説で近代的自我にそっぽを向き、近代の古層に潜む狂気や死への親近を道ずれにしている没倫理性を指摘している。
    川村氏は東京大空襲の体験を永井荷風のダンディズムの体験記と比較して『東京焼尽』は、非個性的であり、恐怖を中心とした生理的な反応ばかりとしている。生物的反応の普遍性は恐怖、幻想性、ユーモアの非個性から生じている。
    私小説のようにみえて、その『私』はとめどもないという不思議さ。漱石夢十夜』の影響の大きい夢(虚構)と現実の境界のなさもポストモダン的である。川村氏は『件』という短編をボルヘスアステリオンの家』やカフカ『巣穴』と比較していて面白い。その上で内田が無意味をめざしてるのではなく、自己だけの「意味」にこだわりたいためという。
    他者の介入を許さない自己本位の砦、自己防衛本能の極端な肥大化だという。「ひきこもり」現象に似通う。日本の近代小説では内田は特異である。(福武書店

宇野常寛ゼロ年代の想像力

1990年代から2000年代(ゼロ年代)にわたる「失われた十年」のサブカルチャーを中心にした精神文化論である。宇野氏の視点には一貫性があり、今後の展望も明確である。90年代は個人の生に意味を与えず、目的も価値も示してくれない不透明な時代であり、「大きな物語」が後退し個々の存在はデータベースから自分の欲しい情報を読み込むだけである。そのため、徹底した情報を読み込む人々の間にはコミュニケーションは発生しない。人々は自己像=キャラクターを承認してくれる小さな物語=コミュニティを検索し摩擦なき全能感を手に入れているが、ここからの脱却の想像力を宇野氏は求めようとする。
私は宇野氏の90年代からゼロ年代サブカル批評が面白かった。90年代を「ひきこもり=心理主義の時代」としている。その上で「95年の思想」を位置づける、オウムと阪神淡路大震災の時。「新世紀エヴァンゲリオン」と幻冬舎文学、野島伸司作品の想像力。「〜である」設定によって承認されるキャラクターたちが社会的自己実現を拒否し精神的外傷の承認を求める物語。
それはゼロ年代の物語回帰による決断主義の生き残りのバトル・ロワイヤル=動員ゲームによって乗り越えられる。「バトル・ロワイヤル」「無限のリヴァイアス」「DEATH NOTE」の作品の時代。「セカイ系」のゆり戻しは、自分でなく他人(戦闘美少女)に決断させそして彼女に無条件で必要とされることを享受する。ゼロ年代バトル・ロワイヤル=動員ゲームからいかに脱却するかの想像力が生まれ、決断主義ゲームの勝利ではあがなえない有限で入れ替え可能な中間共同体を獲得できるコミュニケーションという関係性が出てくる。宮藤官九郎の作品や「野ブタ。をプロヂュース」が挙げられている。コミュニケーションによる関係性で自己構築をする時代へ
この分析が正しいかどうか分からない。だが宇野氏の視点は明晰に時代を読もうとしている。東浩紀以後のサブカルチャー批評のひとつとして面白い。(早川書房