四方田犬彦『七人の侍と』現代黒澤明再考』

四方田犬彦『「七人の侍」と現代―黒澤明再考』

2010年は映画監督黒澤明の生誕100年という。この本はそれを狙ったかもしれないが、目配りも良く充実している。キューバコソヴォパレスチナでの「七人の侍」の評価や1954年に作られたこの映画が、いかにその後リメイクや模倣され映画ジャンルとして確立したかを分析している。抗争や虐殺、難民がいるところでは「七人の侍」は感動を呼ぶ。
1954年という年は敗戦―占領期が終わり、講和条約で日本が独立し再軍備も始まった。原水爆時代であり・映画界では東宝争議を終えた時代でもある。映画『ゴジラ』が製作され精神的には『七人の侍』と双生児だという指摘は面白い。この本の特色は時代劇映画史の流れの中から『七人の侍』を捉えたことだろう。戦前からの殺陣の様式化を批判しリアリズムに徹しようとした。逆にリアルが様式化すると「用心棒」や「椿三十郎」の血が吹き上げるショットになる。
この映画は、侍と農民そして野伏せの三者で構成される。侍と農民の多様な人物像は
よく描き分けられていてその四方田氏の分析は鋭い。だが野伏せの人物像は弱いという。日本映画では「敵」の描くのは弱く、画一的である。この点はジョン・ダワー氏も日本の戦争映画で指摘していた。勧善懲悪の伝統か。最近の歴史学では戦国時代は、侍(浪人)と野伏せの相違は少なく、さらに農民も武装する村を作り自力防衛していた例も少なくないという。七人の侍の一人菊千代(三船敏郎)は農民の侍化として黒澤は描いているが。
七人の侍」は第二次世界大戦の影響が大きい。戦後映画のイデオロギーがふんだんにみられる。戦闘場面の精神主義の否定。敗残兵への拘り。敗北と戦死者の服喪。無辜の農民像の否定。こうした点を四方田氏は挙げている。納得できる。侍の空しさ、実体のなさ、幻想の理想主義は戦前日本の軍支配を批判している。敗北の美学が反戦の思想を含みこみ、戦争の犠牲者の服喪と共同体の存続の願いがある。(岩波新書)(2010年9月)


村瀬学宮崎駿の「深み」へ』

宮崎アニメ論はまだまだと言っていい。切通理作宮崎駿の世界』や稲葉振一郎ナウシカ解読』も読んだが、力作といっていいがもう一つよくわからなかった。世代的にアニメ世代でない私にとって宮崎アニメ論は難しい。村瀬氏の宮崎論も視点ははっきりしている。「食べること」「腐ること」「産むこと」という生態系による有機的世界観で解こうとしている。「ジャングル」から「腐海」へという「風の谷ナウシカ」論が、「腐海」を再生の場として捉えるのは面白い。物を食べ腐敗させ排出する生物の生態系から宮崎アニメを論じるのは、「汚れの極限で、かさぶたが剥げ落ちるような清浄な世界」という切通氏の指摘にもある。
 メッセンジャーとしてのナウシカ観や、「王蟲」に口が無く黄色い触手があるのは相手を食べ消化するのではなく、「触れる」という治癒の触手だという指摘にハッとする。「となりのトトロ」論で、田舎や植物も「物語」がないと目に見えるものにならないというのも納得がいく。また「もののけ姫」論で生命と火(人間は火を使う生き物)の対比として捉え、火(火器)を使う人間が『無形の腐』と『有形の容姿』の循環を壊したことが主題として浮かび上がってくると村瀬氏は言う。「人間が引き起こす火(技術)の支配する世界に対して、火意外で成立している生き物全体の世界をぶつけてみる必要があるのではないか」と村瀬氏は書く。宮崎アニメには人間とは何か、自然とは何かという問いが深くながれている。(平凡社9(2010年9月)