渡辺京二『逝きし世の面影』

渡辺京二『日本近世の起源』
     『逝きし世の面影』

渡辺史学といわれるほど史観がはっきりしている。近世をアーリイ・モダン(早期近代)として考え、徳川・江戸文明を評価して、逝きし幸福で平和な調和的・共同体社会と見て明治維新以後の近代化社会を相対化しようとする。『日本近世の起源』にはそうした徳川期が戦国・中世社会からどのようの成立したかを考察している。渡辺氏には戦後史学の中核だったマルクス唯物史観への批判がある。
 16世紀とは日本史でも転換期だった。戦国乱世から徳川の平和へ、『日本近世の起源』はその転換を分析している。武装し自立する惣村が自力救済で暴力も行使する乱暴狼藉の世界。雑兵を集め土着の地方割拠する中世世界から、徳川の平和による江戸文明にどう変わっていったのかの叙述はよくわかる。この書の白眉は第6章「中世の自由とは何か」だろう。歴史家・網野善彦の『無縁・公界・楽』批判である。網野は中世共同体からの脱出のための自由空間として縁切り寺や自由都市など「無縁所」があったことを重要視する。だが渡辺氏は、無縁所は幻想であり別の隷属をもたらし中世の自由にほど遠いと論じる。中世の自由とは主従関係の契約自由の考え方にあると渡辺氏は見る。
『逝きし世の面影』は、江戸・徳川期の失われた今と異質な日本文明を扱うっている。この本の特徴は、江戸中期から明治初期に来日した外国人の日本社会の紀行・日記・見聞録のみで構成された日本人論からなっていることだ。「外からの目」で江戸期文明を見るのは一つの方法だ。それによって文化人類学のように政治経済でなく、生活習俗、倫理、人間関係、女性、子供、労働、性、信仰などの生態が生き生きとよみがえって来る。近代資本主義社会にない人間の生存をいかに過ごしやすくする簡素な知恵が働いていたかが浮かび上がってくる。失われた文明がユートピアとなる。近代社会批判になる。
だが外国人の目には近世日本社会の負の面、マイナスの面も映っていたはずだ。その部分がほとんどないので片手落ちの感がぬぐいえない。たしかに戦後日本知識人のなかには封建遺制への批判が強く自国の文明を批判的に捉える風潮があった。渡辺氏は進歩史観には批判的にみえる。だからといって保守でもないだろう。近代資本主義社会をどう乗り越えるかの問題意識をこの本で提示しているとも読める。(『日本近世の起源』洋泉社)(『逝きし世の面影』平凡社)(2010年6月)