鷲谷いずみ『生物多様性入門』井上ひさしの『戯曲』を読む

鷲谷いずみ『<生物多様性>入門』
入門書となっているが、生物学、生態学社会学に渡って生物多様性を考えている深い本だ。地球温暖化生物多様性の問題は、人間と自然の未来へのかかわりで重要な問題である。この本は生物多様性とは何かという生態学の分析から、生物絶滅の危機の現状、さらに危機を未来に克服する実践行動までも指摘してくれる。現代人の常識に必要な本だ。
「自然を守る」とは、自然のペット化や人工化ではない。鷲谷さんは多様な樹種の多層な自然林と、単一栽培の人工林との違いを挙げている。「生態系の多様性」という視点こそが必要なのだ。自然の単一化(モノカルチャ−)が盛んだが、家畜化や園芸化は自然を弱くする。眼に見えない微生物との共生も含まれなければならない。単一化は、家畜の口蹄疫のように伝染病を蔓延させる。人工林も自立的には維持されない。生態系にもろいから、化学肥料や農薬が必要になる。このためいま里山・里地や湿原が、生物多様性の観点から見直されている。人間とは何か、自然とは何かを考えさせられる本である。(2010年6月)(岩波書店

井上ひさしの戯曲を読む 
父と暮せば
井上の戯曲はチェーホフのボードビルのように心の底から笑えない。テーマが重過ぎて笑いが深淵に吸い込まれてしまう。それはペーソスの笑いでもない。実存的笑いだ。不条理な残酷な地獄的な世界であり、そこでは笑い飛ばすしかない。井上戯曲には様々な劇的な面白さや工夫がある。劇中劇やオペレッタ的歌謡、ボードビル的どたばた、言葉遊びや言葉の二重性(方言など)は井上戯曲には欠かせない。『父と暮せば』は夢幻能のような死者との対話を、原爆死した父と生き残った娘で演じさせる。広島弁のセリフが新鮮でコミカルだ。
原爆投下という人間の想像力を超えた状況は、表現不可能であり表現しようとすると喜劇的な表現のほうが胸に突き刺さる。父竹蔵や娘美津江のセリフに生き生きとそうした描写がある。一人だけ生き残った娘の負い目からの再生を死者の父が励ます。残酷な喜劇だが、原爆からの広島いや日本の再生を、井上は生き残った日本人の死者への戦後責任として訴える。核廃絶と第9条を守る悲願がこの戯曲には漲っている。(新潮文庫)(2010年6月)
『ムサシ』
佐々木小次郎が生きていて、鎌倉で宮本武蔵と再び戦おうとする。破天荒な演劇的想像力だ。戦国時代に不条理に死んでいった庶民の亡霊たちが、復讐による戦闘を止めさせようとして喜劇的などたばたが、繰り広げられる。沢庵和尚や柳生但馬守が登場して深いセリフを述べる。人間が殺しあうとはなにか、戦闘とはなにか、それがいかに不条理な運命を人々にもたらすのかを考えさせる。残酷な喜劇だが不思議な明るさがある。亡霊たち9人が二人の決闘を止めようとする集団的どたばたは、庶民の知恵があって面白い。井上の反戦思想の原基がこのドラマにはある。(集英社)(2010年6月) 
『夢の痂』
昭和天皇の戦争責任という重いテーマを喜劇的に描く。東京国際裁判三部作の最後の戯曲だ。井上は「あとがきに代えて」で東京裁判を瑕は多いが「歴史の宝石」と呼び、二つある瑕の痂を剥がす必要を言う。一つは大元帥たる昭和天皇の戦争責任、もう一つは国民が血と汗を流した戦争を裁いた裁判への無関心である。だが井上戯曲は観念的イデオロギー劇ではない。天皇の東北ご巡幸の行在所に決まった佐藤家で繰り広げられる喜劇である。
元陸軍参謀三宅徳次と小学校教師で佐藤家の長女絹子が天皇の戦争責任を問うていく展開は納得できる。劇中歌も軽妙で楽しい。(集英社)(2010年6月)
『ロマンス』
チェーホフの評伝劇である。チェーホフのボードビル演劇への賛歌だと言っていい。井上の演劇論の劇化である。チェーホフの少年期、青年期、壮年期、晩期と4人の別の俳優が演じる多元的舞台になっている。ボードビル的寸劇で繋ぐのも流れがある。劇中歌がオペレッタのように訴えかけてくる。たとえばサハリンの歌とか、最後のボードビルの歌。やるせない世界を救うものはなにか「わらう わらい わらえ /それが ひとをすくう」と歌う「なぜか」の歌。
井上=チェーホフにあっては、この世の苦しみを救うのは「笑い」である。「笑い」は「愛」とともに人間が創造した救世主である。(集英社)(2010年6月)
『珍訳聖書』
井上戯曲の傑作である。犬の芝居が、じつは元陸軍二等兵の復讐劇で、犬の芝居も復讐劇も浅草ラック座の特別ショーで、それも警察官の検閲のための舞台観劇でと劇中劇の劇中劇と「入れ子構造」がつぎつぎと続いて行く。無限劇になるところをこの劇の劇作家が刺され終わる。テーマは重い。戦争責任、復讐、猥褻、権力の検閲、ウィルス伝染の恐怖など。劇中歌が冴え渡る。どたばた仕立ての喜劇に見事に仕上がっている。珍訳聖書ではキリストは笑いである。(新潮社)(2010年6月)