吉村武彦『蘇我氏の古代』倉本一宏『蘇我氏』

吉村武彦『蘇我氏の古代』
倉本一宏『蘇我氏―古代豪族の興亡』

       偶然なのか2015年12月に6−7世紀古代の豪族・蘇我氏の本が同時に出版された。ヤマト王権で繁栄をきわめた栄光の豪族・蘇我氏が、大化の改新乙巳の変)というクーデタで滅亡した歴史の謎に興味があるからだろう。
       吉村氏も倉本氏も、蘇我氏の朝鮮渡来人という起源説を避けている。奈良・葛城氏の豪族からでてきて、地名・曽我から生じた「氏」と見ている。吉村氏は「氏の誕生」で、大伴氏や物部氏が「職能を名乗る氏」だったのに、曽我氏は土着の地名を「氏」名としていると述べている。倉本氏も葛城氏の一族から蘇我氏が生じ、文明開化に力を入れ、朝鮮の渡来人技術集団を掌握し、農耕では、屯倉など倉の管理などで公地公民の先駆けとして権力を握っていったとみている。
       蘇我氏は、平安朝の藤原氏のように大王(天皇)に娘を嫁がせ、「外戚」として権力を確保していく。葛城氏もそうだったというから、日本古代の王権は世界史のなかでも、婚姻による外戚姻族が支配する特異の支配形式だったといえる。藤原氏蘇我氏のコピーといった気さえする。
       稲目―馬子―蝦夷―入鹿の蘇我本家は滅びるが、蘇我一族は壬申の乱から平安朝まで生き延びていくというのが、吉村氏、倉本氏の共通の歴史認識である。なぜ蘇我本家は倒されたか。倒した天智天皇藤原鎌足側の歪曲された「日本書紀」などで記述された蘇我氏独裁への権力奪取は、いまや真実かどうかは疑問にされている。「悪役」化されている。平家と似ている。
       蘇我氏の時代は、中国に唐王朝という強力な帝国が成立し、ヤマト王権は朝鮮と集団的自衛におわれ、そのため中央集権の「律令制」に移行する激動期だった。機構や制度よりも、天皇家との人格的・身分的従属関係が強く、豪族連合の面も残っていた。文明開化氏族の蘇我氏は、律令制官僚独裁国家への移行を考えていたといえる。だが、皇位継承や一族の権力争いから、独裁志向は倒される。天武、天智の律令制は、蘇我氏が滅びなくてもおこなわれただろう。
       吉村氏は、蘇我氏律令制支配は構想できないしがらみを持っていたという。藤原氏のような官僚氏族になり得なかったと見る。だが、倉本氏は、律令国家における藤原氏の権力の根源は、大化前代の蘇我氏とまったく同じだという。天皇家ミウチ的結合し、律令制に拘束されない「輔政」によって、官僚氏族になり権力を独占する。それは昭和初期まで続く日本の支配体制の型なのである。(吉村武彦『蘇我氏の古代』岩波新書、倉本一宏『蘇我氏中公新書