ヘリゲル『日本の弓術』

オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』

昭和12年に出版されたドイツの哲学者・ヘリゲルの、禅仏教をもとにした弓術論である。いまや弓道はスポーツ化してしまったが、日本伝統の武道の根底にある精神を、西欧人がいかにとらえたかがわかり興味深い。ヘリゲル教授は。東北帝大に赴任して、実際に阿波師範に6年間にわたり、弓道指南を受けている。
    射撃のように、スポーツとして合理的な技術訓練により百発百中を目指すのではなく、禅的な無私の呼吸法などの精神滅却により「的」を射抜く方法は、日本弓術の根底にある「達人」思想である。いまスポーツでも「メンタル・トレーニング」は重視されつつあるが、やはり心理を合理化していく「手段」のひとつに過ぎない。人格形成の神秘的合一という「目的」は、宗教的な精神を暗示している。
    自意識をいかに無視にして、勝利の目的のみではなく、身体と心、外界と内界、目的と手段を、直感により精神集中していくかが武道だとヘリベルは指摘している。ヘリゲルの場合、それに西欧的考えと東洋的精神の合一という難題もあった。
まず呼吸法、丹田の力の入れ方、筋肉の力が緩やかになっていく、射るまえにすぐ射るのではなく、忍耐して意識がなくなる「無心」で自然に射る、「的」は自分自身など、伝統弓術の精神鍛錬が、いろいろ書かれている。だが技術論ではない。弓術のような精神統一が重要な武術には、こうした考えが必要なのは、よくわかる。
      だが、日本軍国主義教育の根底に、武道があったことも確かだ。神秘的合一もよくわかるが、現代の青少年に押し付けることはできない。ヘリゲルの見方は、あくまでも自発的な無私精神なのだから、しごきや集団訓練とは別物である。
      逆に私は「遊び心」が、無心な精神集中になりえるのではないかと思う。部活とは、勝利第一の過酷な手段訓練でなく、「遊び」による楽しむ娯楽のような、やわらかくリラックスした土台から生じる。勝利を目的とする競争意識ための「手段」が、「目的」第一に転じたとき、神秘的合一は生じないだろう。
武道は、生死という戦争勝負から解放され、遊戯化することにより、ヘリゲルのいう神秘的合一が行われるようになったといえる。遊びこそ脱利害で、無私の喜びを与える。
岩波文庫、柴田冶三郎訳)