佐々木敦『ニッポンの思想』

佐々木敦『ニッポンの思想』

  ゼロ年代末に書かれた「ニューアカ以降の現代思想の歴史教科書」と佐々木氏がいう本だが、今読んでみても80年代からの日本思想の流れが良くわかる。
  80年代ニューアカ浅田彰中沢新一から柄谷行人蓮見重彦、90年代の福田和也大塚英志宮台真司ゼロ年代東浩紀までの日本の思想について一貫性を持ってきちんと描いている。
  佐々木氏の手法は、つぎの4点からなる。その一は、思想の「内容」よりも「振る舞い=パフォーマンス」の重視である。その二は、佐々木氏が「シーソー」という思想の対抗による振り子運動の反復として捉える。その三は、思想家をプレイヤーとし「演技=競技=遊戯」の視点で見る。
  その結果は「思想市場」での商品として「売れたか売れないか」で社会の見方を導入する。もちろんこの市場での価値は、思想内容の価値とは連動しない。
  確かに80年代のニューアカの浅田氏や中沢氏の思想書の売れ行きは凄かった。佐々木氏は二人の思想を「差異化」という視点で解いていこうとする。例えば浅田氏の差異化は「過剰」を生産するが、中沢氏の差異化は「無限」を内包しているという。柄谷氏と蓮見氏の「作品論」「テキスト論」の問題点も論じている。  
  だが90年代には、福田氏がニューアカのニッポン思想批判である「無の場所」としての、「自然=生成」としての、「物語=制度」としてのニッポン論の肯定という価値転倒(シーソー)があらわれ、福田氏のパフォーマンスがおこなわれたと分析する。
  連赤、オウム事件の後に、宮台氏の「終わりなき日常を生きる」という思想のゆり戻しが生じる。90年代から日本回帰の思想が強まってくる。
  佐々木氏によると、ゼロ年代東浩紀氏の思想の一人勝ちだという。ポストモダン批判の後ニューアカから決別した東思想が、なぜ一人勝ちしたかの分析は面白い。社会学大澤真幸氏は「虚構の時代」の後を「不可能性の時代」と言ったが、東氏は「動物化の時代」という。
  動物化とはデータベース消費に受容的で家畜のように飼いならされる意味だ。佐々木氏は「薬物依存者のドラックが萌え要素に変わったのがオタクであり、彼らの単純かつ即物的な依存のありようが動物化と呼ばれます」と書いている。
  東氏の権力論では「規律訓練型権力」に対して情報などのソフトな権力は、不可視化され日常生活に溶け込んだ「環境管理型権力」になると指摘している。 住民基本ネット、通信傍受法、秘密保護法、監視カメラ多用の監視社会、体罰(規律訓練型)からソフトな情報指導と相互監視への転換などを、私は思った。(講談社現代新書