サルトル『自由への道』(その3)

サルトル『自由への道』(その3)


第三部「魂の中の死」
第四部「奇妙な友情Ⅰ)

 この小説は、フランス20世紀を描いている。世界大戦、敗北、占領、捕虜収容所、コミュニズムと党、レジスタンスが様々な手法で、全体小説の構想で書かれている。だが、長編だが、「未完」に終わっている。なぜ挫折し未完に終わったかは、時代状況やサルトルの思想の変化などがあるのだろう。だが、私はこの小説は、戦争・敗北・捕虜・抵抗という偶然の過程で、マチウもブリュネも人間変革が起こり、「暴力による力の人間(闘う人間)」に、変貌していく危険な自由へと行動を変えていくことにあると思う。西欧伝統小説には、一人の人間の成長をえがく「教養小説」があるが、マチウも知的哲学教師で、モラトリアム人間であったのが、敗戦になっているのに、突然、教会に狙撃兵と籠もり、大群のドイツ兵相手に銃を乱射していく。テロリスト的人間(ゲリラ的)に変貌するのだ。「負の教養小説」になる。
 遺された草稿では、マチウはレジスタンスというテロ活動でドイツに捕まり、拷問のあと殺されていくという。それが正しいかどうかサルトルが書かなかったからわからない。ブリュネは捕虜収容所で、コミュニストとして組織化を行うが、フランス共産党独ソ不可侵条約で、ナチと和解していくのに疑問をもち、以前に党を批判し除名されたシュネーデルと「奇妙な友情」を持ち、ナチドイツと闘うために、二人で脱走しシュネーデルが射殺されるところで、この小説は未完になる。党という組織よりも、個人同士の連帯・友愛が、闘う人間の源基と見なされ、ブリュネも抵抗運動のテロリズム(ゲリラ主義)に行き着くのではないかと思う。
 戦争の時代とはいえ、サルトルが行き着くのは、ニーチエ的な「力の思想」であり、21世紀テロリズムの時代を予感させる小説のため、サルトルは挫折していったのではないかとも思う。サルトルが「暴力」に親和性をもっていたことが、大戦後のフランスの時代状況と矛盾を強くしていったのではないか。「暴力への自由」は、「魂の中の死」の最後でマチウがドイツ兵に銃を撃ちながら、「全能だった、自由だった」と思う文章には、力への全能感による自由が漲っている。サルトルの暴力への親和感は、問題を秘めている。(岩波文庫「自由への道」5、6巻、海老沢武・澤田直訳)