ルター『キリスト者の自由』

「自由論を読む①」
マルティン・ルターキリスト者の自由』




 ルターは、神の全能を侵害するものと個人の判断する自由意志論を否定し、神学決定論を主張したといわれる。だが同時に人間個人こそが、信仰の本質たる救済への「信仰の自由」をもつ主体だと見なされている。この本でも「キリスト者はすべてのものの上にたつ自由の主人であって、だれにも従属されない」と「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、だれにも従属している」の二重性から解き明かしている。ルターはその二重性を「霊」と「肉」(身体)に分け、自由を「霊」と「愛」の信仰に置こうとする。
 自己の有限性と無知、罪を犯しやすい「肉」としての存在から自由になるのは。恵としての神が使わした贈り物であるキリストへの信仰であるとルターは考える。ルターのキリスト者の自由とは、罪と律法と戒めからの自由になる、真の霊的な自由であり、たかくあらゆる自由にまさる自由だということになる。たましいは、キリストについて説かれた「福音」の「御言葉」にある。聖書という言葉に対する信仰は、聖書原理主義と言ってもいいだろう。だが人間中心主義による自己中心による傲慢主義からの解放と自由を、ルターはキリストという「愛の自由」によって乗り越えようとした。現在の地球環境危機を見越していたように。最後にこう書く。キリスト者は自分自身のうちに生きるのではなく、キリストと自分の隣人とにおいて生きる。すなわち、キリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生きる」
近代はルターが述べた「信仰」による自由には行かなかった。「信仰の自由」さえもその強制と囚われ、聖典原理主義による不自由になっていく。ルターの論敵エラスムスの人間の自由意志論が結果的には近代を作っていく原動力になった。ルターには反動的な思想の面もあるが、(農民戦争への反対、反ユダヤ主義の方向)、人間の「自由」の限界を指し示した先駆者だったと私は思う。(松田智雄責任編集・世界の名著『ルター』中央公論社、『キリスト者の自由 聖書への序言』石原謙訳・岩波文庫