中原祐介『現代彫刻』

中原祐介『現代彫刻』

 戦後美術評論を先導した中原祐介氏が2011年3月に亡くなった。この本は現代彫刻を鋭い視点で描いたもので、文明論にもなっている。「私はミケランジェロの一点より、ティンゲリーの一点とともに生きたい」という中原氏の彫刻への熱い思いが溢れている。現代彫刻は実用的必要性よりも,「精神的必要性」から生じた「てわざ」であり、物質文明あるいは工業機械社会の内側に閉じ込められた彫刻家の文明に対する態度・思想を反映していると言う。
ロダンの古典彫刻の崩壊から始まった20世紀彫刻は、超現実主義のいう人間の無意識の世界と、物質を「オブジェ」として認識するところから始まった。デユシャンの便器のレディメイドは、製品が「親しくなりすぎた他人」となり、そこから実用性を剥奪したことから「オブジェ」が生じる。物質の反乱から出るガラクタの物体を使う「廃物芸術」。古典彫刻の敗北だが、物体主義の行き着くところ、工業製品だって確かに彫刻である。
 未来派ボッチョーニから動く彫刻が生まれる。それはティンゲリーの「動く機械」やシェフェールの光学的芸術機械に到る。「空間の鳥」をつくったブランクーシ論は面白い。中原氏によれば、物体の特殊性を消し去り、単純な形態をブロンズで彫刻し、表面を鏡のように均一に研磨したブランクーシは、量塊を誇示していた彫刻を、境界のない空間という新しい立体造型を示したとみる。ジャコメッティの人体の単純化もそうだろう。
 20世紀彫刻は「空間の視覚化」を重視した。タトリンなどソ連構成主義から始まり、バウハウスのモホリ=ナジや、フォンタナの空間主義に行き着くことへの中原氏の分析は、カロやスミスの台座の消失と有機的統一感を欠いた関係性にいきつき、彫刻が量塊より表面の配置(ジャット)になる。それを現代文明論から説くから面白い。その結果、現代彫刻が「矛盾」のかたまりになってしまったと中原氏はいうのである。(美術出版社)