小倉紀蔵『韓国は一個の哲学である』

小倉紀藏『韓国は一個の哲学である』


 卓抜な韓国論である。書き出だしで韓国とは「道徳志向性国家である」と始まるのでびっくりする。韓国のTVドラマは理屈で固められた感情の激突で、恋人たちは道徳を叫び、言葉の主体間の闘いであり、日本のドラマは感覚の予定調和的な論理展開からなり、世界観の対立、主体間の闘争がないと小倉氏はいう。2002年ワールドカップ招致合戦で韓国は南北統一と東アジアの平和に寄与すると主張し、日本はメッセージがなく、世界の一流のプレーが見られるという素朴で感覚志向的だった。
 「日本人は自己の私的な欲望が公的メッセージになりうると誤解し、韓国人は私的な欲望を公的な道徳で隠さなければ自己は存在しないと怯える」と小倉氏は指摘する。
何故小倉氏が韓国はひとつの哲学というのかは、朱子学の国家統治以降、この半島を支配してきたのは個性を主張する普遍的原理の「理」であり、それは北朝鮮の「主体思想」まで通じているという。理気二元論で韓国を解こうとする。「理」が道徳的普遍性とすれば、「気」は肉体的生命力だという。人間の本然の性は善であり、それが気で曇れば発現できず悪になる。性善説は上昇志向であり、理=道徳性志向になる。科挙から現代の試験競争は上昇志向の象徴とも見る。小倉氏によれば、ハン(恨み)とは理と合一しようとするあこがれであり、韓国ロマンティズムだという見方も面白い。
「理の世界」と「気の世界」の二元論で韓国の総てを説こうとするのは面白い、強引過ぎる点も私には感じられた。また80年代以後の韓国は果たしてこの二元論で解き明かせるのかも重要な論点である。小倉氏は経済発展の「利」と「理」の関係も論じているし、情報化、世界化と「理気」の関係も論じているが、難しい問題だ。だが理気論という統一理論で韓国に肉薄することに感心した。(講談社現代新書講談社学術文庫