バタイユ『沈黙の絵画』

ジョルジュ・バタイユ『沈黙の絵画』

 この本はマネ論、印象主義ゴヤ論、レオナルド・ダ・ヴィンチ論が収められている。マネ論が長編であり、あとは、小論文である。バタイユの芸術論にある芸術の否定性・不可能性の情念に基づいた考察である。マネでは、「オランピア」のスキャンダルが中心に置かれている。バタイユはこう書く。マネの絵画には「ある感情の抹殺の感情」があり、「雄弁がかつて創り出したさまざまな嘘との絆を絶対的に、沈黙のうちに断ち切った存在の魅惑」があるのだと。伝統的絵画の主題の破壊と、散文的日常の絵画による否定がスキャンダルになる。近代絵画の誕生である。無表情な人物像と逆に繊細な感性を担わせた人物の対立は「バルコニー」に見られるという。人間を無意味、無関心の「牡蠣」の絵のように描くマネ。不在と沈黙をマネは描く。ゴヤには意味の途方もない不在の積極的価値を表現しているとして、不可能な情況に結びついた苦悩の共犯性として素描の、悲惨、不具、老年のさまざまな失寵、狂気、愚かさ、虐殺、拷問について論じている。
私が面白かったのは、ダ・ヴィンチ論だった。ひとつの専門化された道具以上のものでありたい、特定の可能性に自分が限定されることを拒否しょうという限界の欲望は、現代の専門化、オタク化の時代には幻惑される。レオナルドの知的認識には対象への賛美と愛があり、自然に熱烈な「至高の師」を見る。山々の美とそれへの同一化は、近代の自然を科学の抽象化の総計としてとらえる見方ではない、だがバタイユダ・ヴィンチは人間の自然との対立と否定を持ち、自然としての肉的なもの性愛や洪水、地震、火山活動に恐怖をもった。自然への嫌悪と魅惑があつた。今日科学の世界は抽象の死んだ世界だが、レオナルドは認識から感性的要素を取り除かなかったとバタイユは言う。その深淵がダ・ヴィンチの絵画に反映している。(二見書房・宮川淳訳)