三遊亭円朝『牡丹灯篭』『真景累ケ淵』

三遊亭円朝『牡丹燈籠』
三遊亭円朝『真景累ケ淵』

明治初期の円朝の人情噺は聴いてみたい。いま読めるのはその速記文である。円朝の江戸俗語から二葉亭四迷は、近代的言文一致体を作ったという。だが円朝の肉体を通り呼吸
の息遣いで、歌舞伎俳優のせりふのように演じられた怪談噺は迫力があっただろう。とくに擬態語のうまさ。『牡丹燈籠』の次のくだり。「サラサラとあいたかと思うと、スラリスラリと忍び足で歩いて参り、また次のお居間の襖をスラリスラリと開けるから、お国はハテナ誰かまだ起きているかと思っていると、地袋の戸がガタガタと音がしたかと思うと、錠を明ける音がガチガチと聞こえましたから、ハテナと思う内スゥーットンと襖をしめ、ピシャリピシャリと裾を引くような塩梅」
 江戸末期から明治初期という近代が始まる端境期に、歌舞伎の河竹黙阿弥噺家円朝が「悪党と幽霊とあだ討ち」という中世的心情の大衆文化を作りだしたのは、面白い。そこには民衆の鬱積するエネルギーがある。閉ざされた狭い家族・社会のなかでの濃密な人間関係での悪の連鎖性がある。有機的な生態学のような連関性のなかでの悪(死)とあだ討ち(再生)の世界。あだ討ちは中世の自力救済の遺制だが、神の不在と国家法廷の不信がそこにある。仏教的な因果応報の影響はあるだろうが、もっと現世的だ。
 ギリシャ悲劇のような「偶然性の運命」が多すぎる。『真景累ケ淵』の新吉とお賎という夫婦同然の悪のカップルが、江戸旗本の異腹の兄妹だったなど。『牡丹燈籠』では、余儀なく喧嘩で立ちあい斬り殺した浪人の息子が後年その家に知らずに奉公に入るなど。そうした偶然性が円朝の噺の核になる。
円朝は幽霊を人間の悪が生む幻想による神経病と近代的解釈をしているが、果たして円朝がそう考えていたとは思えない。過去の情念は消えず、死者が生者に遺伝子のように生存し現れる。記憶の怨念のストーカー。旗本の娘お露が死霊としてストーカーのように、恋人新三郎のもとに燈籠を掲げ通う。累ケ淵での豊志賀の嫉妬が新吉に取り付き、残酷なお久殺しを引き起こす。
 円朝の人情噺には、人間の原罪を感じる。平成末期の閉塞の時代に多発する家族間の殺し合い、ストーカー殺人、などを思いながら円朝を読んだ。(二冊とも岩波文庫)(2010年8月)