武満徹 エッセイ選』(小沼純一編)

日本の代表的作曲家は、またエッセイストとしても優れ、良い文章を書いている。狂死した自分の伯母を描いた「骨月」は名文で見事な短編小説を読むようだ。もちろん音楽論や言葉論さらに映画音楽論は、日本文化論の視点からも面白い。日本で西洋音楽の作曲をするとは何かという東西の視点だけでなく、武満はインドやインドネシヤ、オーストラリア原住民の民俗音楽という第三の視点も入れて、比較文化の根底から普遍的な音楽を追求している。ストラビンスキーやメシアンという現代西洋音楽から学んだ武満の作品の奥が覗ける。アフリカの無文字社会での「太鼓ことば」を研究している文化人類学者・川田順造との共著『音・言葉・人間』も同じような視点がある。
 「November Steps」という作品で琵琶や尺八の演奏が入っているが、この本にも収録されている「東の音・西の音―さわりの文化について」は日本の伝統音楽の音を西洋音楽の音から解明している。西洋音楽では旋律、リズム、ハーモニーを重視し音を音階で構築していく。他方日本では一音の「音色」を重んじる。「間」とか「沈黙」さらに「雑音」―「自然音」まで含みこむ。武満には風や水の音、樹木や鳥・虫の鳴き声への愛がある。
 私が面白かったのは「吃音宣言―どもりのマニフェスト」である。空虚に皮相で機械的に操作された滑らかな言葉に対して、音と言葉はまず肉体から発せられる。どもりとは武満は「意味が言葉の容量を超える時におこる運動」という。どもりの論理性を断ち切る不連続の仕方の力強さ、その反復の偉大さベートーベンの「ダ・ダ・ダ・ダーン」の反復の生命力。そこに音楽芸術の原点がある。
 映画音楽も武満は多く作るっている。映画音楽は映像芸術のなかでいかに音を削っていくかという武満の考えは、今の映画の「音響化」にたいする批判である。ジャズを個人的体験の生の音であり、永遠の欲望を秘めた不確定で不安定な足取りがビートだと論じる。武満の音楽論は戦後日本の最良の思想が滲み出ている。(ちくま文庫)(2010年8月)


福岡伸一『もう牛をたべても安心か』
2010年宮崎で牛の口蹄疫が流行し29万頭が犠牲になった。2001年には日本ではじめて狂牛病が発見され、アメリカ産牛肉輸入禁止に発展、人気牛丼にも影響が出、さらに政治問題までなった。分子生物学者・福岡氏が狂牛病の原因など生命論から解明した本だが、環境問題とかかわる現代文明批判でもある。
 狂牛病病原体の正体の追求は未知のウィルスか、プリオンタンパク質かという発見物語は面白い。プリオン説でノーベル賞を受賞したプルシナーの野心物語は読ませる。だがこの本の核心は、狂牛病を広げた肉骨粉という自然に無い高蛋白な人為飼料が牛の消化器官をと売りぬけ、脳に達し海綿状脳症を発生させ、「種の壁」さえも物ともせず、人獣共通感染症に成っていくかの解明にある。
環境と生命あ同じ分子を共有する「動的平衡」にあるというのが福岡氏の思想だが、その「繋がり」や流れを人為で断ち切ると、狂牛病のような流れを断ち切られた不均衡が生じる。できるだけ人為的組み換えや加速を最小限に留め平衡の流れを乱さないことを福岡氏は主張する。分子生物学の裏付けから書かれているので説得力がある。さらに人間は肉食というたんぱく質を食べ続けるのかという問題まで踏み込んでラディカルな人間論に成っている。(文春新書)(2010年8月