ソロモン『ベートーヴェン』

メイナード・ソロモン『ベートーヴェン

ベートーヴェンの伝記ではロマン・ロランのものを読んだことがある。理想主義的で苦悩から歓喜の解放の音楽という視点だった。アメリカの音楽学者ソロモンのこの本は1977年に出たが、これまでの研究を綿密に検討し精神分析の手法もふくみ、総合的ベート^ヴェン像をえがいている。
 少年期の家族関係の記述は、ボンの宮廷楽長だった祖父への憧れ、凡庸の音楽家アルコール依存症になり暴力も振るう父との関係、プロイセン国王の私生児という妄想、若くして家長だったベートーヴェンの苦しみなどロランの『ジャン・クリストフ』を読んでいるようだ。ウィーンでのヘンデルとの出会いと師事、貴族のパトロンとの関係、次第に進む聴覚障害、ハイリゲンシュタットの遺書と自殺の誘惑、それを克服する英雄主義―ソロモンは「英雄的な時代」と名づけている。
 中年期の「不滅の恋人」の出現。ソロモンは恋人を夫とも友人の大商人ブレンターノの妻アントニェと確定している。謎の解明が綿密で推理小説のようで迫力がある。子供まである友人の妻との恋を超克していくベートーヴェンの諦念は、ゲーテの「若きウエルテルの悩み」のようだ。晩年にかけて死んだ弟の子(甥のカール)の親権をめぐるその母との裁判沙汰と和解の間に「第九交響曲」が創造される。そして死。
 ベートーヴェンの生きた時代は啓蒙主義からフランス革命、ナポレオンのウィーン占領、崩壊と反動のメッテルニヒの時代だった。ソロモンはベートーヴェン啓蒙主義の思想と音楽的には古典主義(モーアルト、ハイドン)の完成者と見ている。だが晩年が問題である。ドイツロマン主義への移行。芸術を至福状態への満たされざる憧れ、人類の兄弟愛への汎神論的神秘主義ロマン主義を思はせるとソロモンはいう。この本でも晩期の「荘厳ミサ曲」や「ディアベッリ変奏曲」「第九」弦楽四重奏曲」などはベートーヴェンの変貌を解明しようとして面白い。だが私はベートーヴェンには最後まで普遍的人間性の調和的発展への解放と未来への超越というドイツ古典主義美学の申し子と思える。(岩波書店・徳丸吉彦、勝村仁子訳)(2010年8月)