ベンヤミン『図説写真小史』藤田省三『写真と社会小史』

ベンヤミン『図説 写真小史』 

1931年に書かれた写真が誕生した初期からの歴史と写真論である。『複製技術時代の芸術』とともに映像技術革新にともなって芸術と技術、複製時代と大衆化の20世紀芸術を論じた古典だ。いま読むと常識となっている面もあるが、いまでも示唆を与える深い洞察に満ちている。
 初期の写真は絵画を真似した絵画的写真だった。だが次第に都市の風景や人物などを日常生活のなかで即物的に撮影する複製時代の芸術作品が出現した。ヒルやナダールの作品。
さらにパリの都市の街頭風景や室内風景を人間を不在にして記録的手法でとりまくったアジェ。人物の集合写真を撮影したザンダーの作品。今見ても迫力がある。
 一回限りの天才的芸術家が創造する本物の独創的作品(アウラ)から、技術による複製時代の芸術の民主化時代をベンヤミンは予測していた。携帯やデジカメで写真が生活に入り大衆化した今、誕生初期の作品がアウラを帯びてしまうのはベンヤミンにとって皮肉である。(ちくま学芸文庫)(2010年7月)

藤田省三『「写真と社会」小史』

政治思想家の現代写真論で1983年に出されている。現代は何処に行っても写真に出会う。その過剰と均質とツルツルの模造品的人工性に耐え難い思いと藤田は写真の社会的現実を見る。ベンヤミンのいう「物の痕跡」でなく人工的「輝きの模造品」で、視覚的騒音と批判する。ペラペラなツルツルな物質感の極めて薄弱な紙切れの上に立つ巨大機構、恥じらいや人見知りを喪失させた写真社会を批判する。
 写真を現代社会の「裂け目」を撮るものとする藤田は、写真家アッジェやダイアン・アーバスさらにヴィシュニアックといった初期の写真家論となる。いずれも面白い。藤田はアッジェの写真を「物音一つしない空白感の中で取り残された物が時の経過の化身となって、影絵として語る」という。それは幽霊のようだ。世界の中で孤独の憂愁が、写真の奥から漂い出る。アーバスは奇形者との直接的対面性で写真を撮り続けた。大量複製芸術時代の写真の一切れを、逆用し、「隠された驚き」を一回的に出現させたと藤田はいう。複製時代のアウラとしての芸術作品という矛盾が此処にもある。(みすず書房)(2010年7月)

飯沢耕太郎『写真的思考』 

飯沢氏は、写真的思考をカメラを抱え神話的創造力で未知の世界のメッセージを伝えるという。シャーマンとしての写真家。まず荒木経惟の「センチメンタルな旅」が取り上げられる。死と生のはざまでの神話的時空の出来事が、妻陽子の撮影で写真化される。スナッルショト論、柴田敏雄の風景写真、東松照明と沖縄、コンポラ写真など現代写真家論が続く。現代日本の写真論として面白い。(河出書房新社)(2010年7月)