徳善義和『マルティン・ルター』

徳善義和『マルティン・ルター

 徳善氏は、ルターについて聖書を読みぬいた人物として捉えている。キリスト教は「ことばの宗教」だという。ルターはラテン語で難しく読めない聖書を自国語・ドイツ語に翻訳し、講演で民衆に伝えようとした。時代はニューメディアとしての活版印刷の時代である。総点数3183点の著作数、どれも今で言うベストセラーだ。コラール(賛美歌)500編の作詞・作曲という「歌うルター」でもある。「コミュニケーション人間」の先駆けである。そのほかに大学での聖書講義、多くの審問や会議での討論、書簡も多い。「ことば」によって宗教改革という歴史を動かしだのが、ルターだったのだ。
 私は、修道士から脱却し修道服を脱ぎ剃髪をやめたルターをクラナッハが描いた絵や、ルターに共鳴し女子修道院から脱走してきた修道女と結婚し子供をもうけるルターのくだりを読んでいて、親鸞と重なってしまった。富裕な鉱山主の父の期待を突然裏切り、大学の法学から修道院にはいる転向も劇的である。ルターには人文主義の人間中心に対して、人間の奥底にある「罪」は、自身で真剣に知恵をつかっても克服できず自分の自由意志はますます罪を重ねさせるから、その絶望から啓示によるキリストの救いによるしかないという反人間主義がある。95箇条の提題の根底にある。
徳善氏はルソーの聖書の読み替えによる再形成を、「律法」から「福音」への変換ととらえている。律法は生きるにあたって「これをするな」「これをせよ」と命じる神の言葉で、完全にむかって努力すれば絶望する。「福音」は人間の弱さを認め、受動的にキリストの恵みの信仰によって救いを得ようとする。罪を犯しやすいが、キリストの「福音」で日々悔い改めていけば、罪は免除されなくても神の恵みは与えられる。人間不信が「十字架の神学」の信仰で人間肯定に転換する。そのためには聖書を読み続け、聖書の「ことばの回復」をルターは試みたというのが、この本の結論である。(岩波新書